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筑紫丸 (特設潜水母艦) : ミニ英和和英辞書
筑紫丸 (特設潜水母艦)[つくしまる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [むらさき]
 【名詞】 1. (1) purple colour 2. purple color 3. violet 4. (2) type of soy sauce 
: [まる]
 【名詞】 1. (1) circle 2. (2) full (month) 3. (3) perfection 4. purity 5. (4) suffix for ship names 
特設 : [とくせつ]
  1. (n,vs) setting up specially 2. special installation 
潜水 : [せんすい]
  1. (n,vs) diving 
潜水母艦 : [せんすいぼかん]
 (n) submarine carrier
水母 : [くらげ]
 (gikun) (n) jellyfish
: [はは]
 【名詞】 1. (hum) mother 
母艦 : [ぼかん]
 (n) mother ship
: [かん]
  1. (n,n-suf) warship 

筑紫丸 (特設潜水母艦) : ウィキペディア日本語版
筑紫丸 (特設潜水母艦)[つくしまる]

筑紫丸(つくしまる)とは、かつて大阪商船が所有していた貨客船。大阪大連線(大連航路)用として建造されたが、建造途中で太平洋戦争が開戦したため特設潜水母艦および特設運送艦として就役する。戦争終結後は復員輸送艦として運用され、やがてパキスタン船主に売却されたが、その後の状況ははっきりしない。
==概要==
1937年(昭和12年)に就航した黒龍丸級貨客船に続いて計画された、筑紫丸級貨客船の第一船として川崎重工艦船工場で建造される。大阪商船は長く三菱長崎造船所に貨客船の建造を多く発注していたが、玉造船所に発注された報国丸級貨客船以降は川崎重工、三菱神戸造船所などに建造が発注されている〔三菱長崎造船所と疎遠になった理由については、大阪商船出身の船舶研究家である野間恒は「永年発注してきた三菱長崎造船所との関係が微妙になり」という書き方でしか表現していない(#野間 p.203)。なお、大阪商船は1939年(昭和14年)に十五銀行所有の川崎造船所株を大量に譲り受けて影響力を強めているが(#大朝390411)、そのこととの因果関係は不明である。〕。「筑紫丸」は1940年(昭和15年)6月20日に起工して1941年(昭和16年)9月24日に進水するが、進水から3カ月足らずで太平洋戦争開戦を迎える。二番船として建造されていた「浪速丸」は、それに先立つ昭和16年4月18日に建造が中止され解体された〔#川重社史年表諸表 pp.192-193〕。「筑紫丸」は艦船建造優先のスケジュールの合間を縫って建造が続けられ、1943年(昭和18年)3月25日に竣工するが、同時に日本海軍に徴傭され、特設潜水母艦として入籍し佐世保鎮守府籍となる〔#特設原簿 p.112〕。なお、「筑紫丸」と入れ替わるように特設潜水母艦「さんとす丸」(大阪商船、7,267トン)が特設運送船に類別変更された〔#特設原簿 p.103〕。就役当時の主だった兵装は15センチ砲4基と機銃であった〔#木俣潜 p.585〕。
「筑紫丸」は呉潜水戦隊に編入され、その旗艦となる〔#呉潜1803 p.50〕。4月1日付で新たに訓練を主体とする第十一潜水戦隊が編成され、呉潜水戦隊の役割を継承した〔#坂本p.143〕。「筑紫丸」も第十一潜水戦隊に移り、瀬戸内海にて母艦任務に徹する〔。12月に入り、「筑紫丸」は南方への輸送任務に従事。12月21日門司出港のヒ27船団で南に下り、1944年(昭和19年)1月2日に昭南(シンガポール)に到着〔#駒宮 p.119〕。3月にはトラック諸島およびサイパン島方面への輸送を行った〔#駒宮 p.152〕〔#海防艦戦記 p.113〕。その後は再び瀬戸内海での母艦任務に戻り、6月13日に伊予灘で訓練中に沈没した伊号第三三潜水艦(伊33)の捜索活動を潜水母艦長鯨」とともに行った〔#十一潜1906 p.28〕。詳しい時期は定かではないが、昭和19年末ごろには第二甲板の一部を撤去して石炭庫を設置〔。その後は九州で産出の石炭を阪神地区などへ輸送する任務に徹し、1945年(昭和20年)1月20日付けで特設運送艦に類別変更された〔。6月4日には周防灘本山沖で触雷するが、応急処置の結果沈没は免れた〔#筑紫丸2006 p.23〕。8月15日の終戦を無事に迎えた「筑紫丸」は、10月5日付で除籍され1946年(昭和21年)8月20日付けで解傭となった〔。
戦後の「筑紫丸」は復員輸送艦となり、昭和21年3月には日高信六郎イタリア大使ら在欧外交官など一行の引き揚げに際し、マニラから浦賀まで輸送した〔。しかし、1947年(昭和22年)5月にはラングーンからの復員兵を乗せて日本に向かった際、シンガポール付近でエンジン故障を起こして立ち往生し、応急修理を行って日本に帰国する一幕もあった〔#神戸港 p.10〕。生まれ故郷の川崎重工で修理されたものの、以降は神戸港因島で係留され、神戸港外に係留中の1948年(昭和23年)5月4日にはエンジンルームを全焼する火災事故が発生した〔〔#神戸港p.14,18〕。戦後の大阪商船は、同じように戦争を生き残った「高砂丸」(9,347トン)とともに「筑紫丸」を持て余していたが〔#木俣残存 p.44,358〕、1952年(昭和27年)1月31日にパキスタンのパン・イスラミック・スチームシップに68万ドル(2億6000万円=当時)で売却され、船名も「サフィナ・E・ミラット」 (''SS Safina e Mitlat'') と改められた〔〔〔#木俣残存 p.44〕〔#神戸港 p.53〕。売却後、川崎重工で機関の整備が行われたものの、新たに配属されたパキスタンからの船員は複雑な機構を持つタービン機関に慣れておらず、大阪商船から派遣された社員が指導にあたった〔。整備を終え、8月6日に神戸港を出港する予定だったものの発電機の不調で出港できなくなり、港の野次馬連中からは「あの船はいつ出港するか」とか「無事にカラチに着けるのか」などと冷やかされる始末だった〔。神戸出港以降の消息はパン・イスラミック・スチームシップの船隊の一隻として紹介され〔、ムスリム巡礼船として使用されたという記録以外は断片的にしか分からず〔〔〔、1955年にの記録から抹消されたとも〔、1953年3月16日にカラチ港で火災を起こしてスクラップになったとも、あるいは1960年に紅海で火災事故により失われたとも言われているが〔〔〔、詳細ははっきりしない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「筑紫丸 (特設潜水母艦)」の詳細全文を読む




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